こんにちは。

 「基礎歴史ブログ」運営者、しんです。

 私は、大学時代3年間一斉授業・個別指導授業を担当し、担当した生徒の成績を最大30点あげた実績があります。

 私は大学3年の時、1か月間ベルリン(ドイツ)にあるゲーテインスティテュートにドイツ語の語学研修に行った経験もあります。

 今回は、「明治時代の乱を押さえる」について話して行きます。

基礎歴史ブログ4

授業をしている講師「前回は、1871年~1885年(三条実美)までの乱について話しました。1871年~1885年(三条実美)までの乱は、何だったかな

授業を受けている生徒「1871年~1885年(三条実美)までの乱は、12個あった。1つ目は、1873年(明治6年)、徴兵制度や学制に基づく小学校の設置による負担の増加をきらい、多くの農民が起こした血税一揆。2つ目は、1873年(明治6年)、征韓論を主張する西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣らと欧米視察から帰国しあくまでも内治優先を主張する大久保利通・木戸孝允らとが激しく対立した。征韓派は敗れ、一斉辞任した明治六年の政変。3つ目は、1874年(明治7年)、征韓派前参議の1人江藤新平は、郷里の佐賀の不平士族に迎えられ、征韓党の首領となった。江藤新平が、政府に対し、反乱を起こした佐賀の乱。4つ目は、1874年(明治7年)、政府は、清国が現地住民の殺傷行為の責任を負わなかったため、台湾に出兵した台湾出兵。5つ目は、1875年(明治8年)、日本の軍艦雲揚が、首都漢城近くの江華島で朝鮮側を挑発し、戦闘に発展した江華島事件。6つ目は、1876年(明治9年)、低米価のもとで過去の高米価も含め、平均した地価を基準に地租を定めることに大規模な農民が反発した地租改正反対一揆。7つ目は、1877年、士族は、明治政府への反乱を起こした。しかし、反乱は、政府によって約半年で鎮圧された西南戦争。8つ目は、1881年(明治14年)、北海道開拓所属の官有物を払い下げるにあたり、開拓使長官黒田清隆が、同郷の実業家五代友厚らが関係する関西貿易社に不当に安い価格で払い下げようとした開拓使官有物払下げ事件。9つ目は、1881年(明治14年)、薩長藩閥政府の専制的な体制を固め、天皇制立憲国家への道を確定した明治十四年の政変。10個目は、1882年(明治15年)、福島県の自由党員・農民などが、弾圧された福島事件。11個目は、1884年(明治17年)、秩父地方の農民が、困民党を組織し、自由党員とともに高利貸しへの返済延長や村民税の減税などを要求して蜂起した秩父事件。12個目は、1885年(明治18年)、大井憲太郎ら自由党左派が、朝鮮の内政改革を企て大阪で逮捕された大阪事件

授業をしている講師「そうだよね。例えば、明治六年の政変の征韓派は、大久保利通・木戸孝允であると問題が出題されたとする。正解は、どうかな

授業を受けている生徒「明治六年の政変の征韓派は、西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣。内治派は、大久保利通・木戸孝允。なので、正解は、

授業をしている講師「そうだよね。明治六年の政変では、征韓派と内治派のどっちが勝ったのかな

授業を受けている生徒「明治六年の政変の結果、征韓派は敗れ、一斉辞任した。なので、正解は、内治派

授業をしている講師「そうだよね。例えば、選択肢を新しい順番で並べ替えなさい。A大阪事件 B福島事件 C秩父事件と問題が出題されたとする。正解は、どうかな

授業を受けている生徒「A大阪事件は、1885年(明治18年)。B福島事件は、1882年(明治15年)。C秩父事件は、1884年(明治17年)。なので、正解は、A→C→B

授業をしている講師「そうだよね。例えば、明治十四年の政変の結果、何を確定したのか答えなさい。また中心人物を答えなさいと問題が出題されたとする。正解は、どうかな

授業を受けている生徒「明治十四年の政変の結果、伊藤博文らを中心に薩長藩閥政府の専制的な体制を固めた。なので、正解は、明治十四年の政変の結果、伊藤博文らを中心に薩長藩閥政府の専制的な体制を固めた



授業をしている講師「正解。今回は、明治時代の乱を押さえるについて話します。早速だけど、明治時代、太政大臣の後は、何が置かれていたかな

授業を受けている生徒「明治時代、太政大臣の後は、内閣総理大臣が置かれていた

授業をしている講師「そうだよね。初代内閣総理大臣と第14代内閣総理大臣は、誰だったかな

授業を受けている生徒「初代内閣総理大臣は、伊藤博文。第14代内閣総理大臣は、西園寺公望



授業をしている講師「そうだよね。伊藤博文は、何年に在任し、西園寺公望は、何年までしたのか分かるかな

授業を受けている生徒「伊藤博文は、1885年在任し、西園寺公望は、1912年までした」

授業をしている講師「そうだよね。なので、今回は、1885年~1912年(伊藤博文~西園寺公望)までの乱を押さえる」

授業を受けている生徒「はい」

授業をしている講師1885年~1912年(伊藤博文~西園寺公望)までの乱は、何か分かるかな

授業を受けている生徒「1885年~1912年(伊藤博文~西園寺公望)までの乱は、9つあった。1つ目は、1887年(明治20年)、自由民権論者が、 外交の回復・地租の軽減・言論の自由の三つを要求して元老院に建白書を提出した。しかし、政府は保安条例を制定して民権派を東京から追放した三大事件建白運動。2つ目は、1891年(明治24年)、ロシア皇太子ニコライ(後の皇帝ニコライ2世)一行が、人力車で大津の京町筋を通行した際、路上警備をしていた津田三蔵巡査が突然、剣を抜き、皇太子の頭部を斬りつけた大津事件。3つ目は、1894年(明治27年)、朝鮮で東学の信徒の農民を中心に減税と排日を要求をした甲午農民戦争(東学の乱)。4つ目は、1894年(明治27年)、ロシアの支配が、東アジアにまで拡大されていた。なので、危機感を抱いた日本は、ロシアの勢力支配が自国に及ばぬよう、まだどの国からも支配されていなかった朝鮮半島を支配することを考え、清国に宣戦した日清戦争。5つ目は、1900年、清国では、「扶清滅洋」を唱える排外主義団体義和団が、勢力を増し、各地で外国人を襲い、北京の列国公使館を包囲した。清国政府も義和団に同調し、列国に宣戦を布告した義和団事件(北清事変)。6つ目は、1904年(明治37年)2月、日本とロシアは互いに宣戦を布告した日露戦争。7つ目は、1905年(明治38年)、国民が賠償金を全く取れないポーツマス条約に不満を爆発させ、ポーツマス条約調印の日に開かれた講和反対国民大会が暴動化した日比谷焼打ち事件。8つ目は、1910年(明治43年)、明治天皇暗殺を計画したとの容疑で多数の社会主義者・無政府主義者が、逮捕・処刑された大逆事件。9つ目は、1910年(明治43年)、日本政府は、韓国併合条約を強要し、韓国を植民地化した韓国併合

授業をしている講師「残念ながら、1885年~1912年までの乱は、9つだけではない。三大事件建白運動・大津事件・甲午農民戦争(東学の乱)・日清戦争・義和団事件(北清事変)・日露戦争・日比谷焼打ち事件・大逆事件・韓国併合以外に2つある。1つは、1882年(明治15年)、朝鮮の漢城で日本への接近を進める国王高宗の外戚閔氏一族に反対する大院君を支持する軍隊が反乱を起こした。軍隊が反乱を起こしたことに呼応し、民衆が、日本公使館を包囲した壬午軍乱(壬午事変)。もう1つは、1884年(明治17年)、日本と組んで朝鮮の近代化をはかろうとした金玉均らの日改革派(独立党)は、日本公使館の援助を得て、クーデターを起こした。しかし、清国軍の来援で失敗した甲申事変

授業を受けている生徒「なるほど」

授業をしている講師甲申事変の結果、どうなったかな

授業を受けている生徒「甲申事変の結果、1885年(明治18年)、政府は伊藤博文を天津に派遣し、清国全権李鴻章との間で天津条約を結んだ

授業をしている講師日清戦争の結果、どうなったかな

授業を受けている生徒「日清戦争の結果、日本の勝利で終わった。また1895年(明治28年)4月、日本全権伊藤博文・陸奥宗光と清国全権李鴻章との間で下関条約が結ばれ、調和が成立した

授業をしている講師「そうだよね。義和団事件(北清事変)の結果、どうなったかな

授業を受けている生徒「義和団事件(北清事変)の結果、日本を含む列国は、連合軍を派遣し、義和団を北京から追放し、清国に降伏させた。また1901年、日本を含む列国は、清国と北京議定書を結んだ

授業をしている講師「そうだよね。日露戦争の結果、どうなったかな

授業を受けている生徒「日露戦争の結果、1905年(明治38年)9月、セオドア・ローズヴェルトアメリカ大統領の斡旋によって、アメリカのポーツマスで日本全権小村寿太郎とロシア全権ウィッテは、ポーツマス条約に調印した

授業をしている講師「そうだよね。例えば、生麦事件とは、1891年(明治24年)、ロシア皇太子ニコライ(後の皇帝ニコライ2世)一行が、人力車で大津の京町筋を通行した際、路上警備をしていた津田三蔵巡査が突然、剣を抜き、皇太子の頭部を斬りつけた事件であると問題が出題されたとする。正解は、どうかな

授業を受けている生徒「生麦事件とは、1862年(文久2年)、生麦村で発生した日本人による外国人殺傷事件。1891年(明治24年)、ロシア皇太子ニコライ(後の皇帝ニコライ2世)一行が、人力車で大津の京町筋を通行した際、路上警備をしていた津田三蔵巡査が突然、剣を抜き、皇太子の頭部を斬りつけた事件は、大逆事件。なので、正解は、



授業をしている講師「そうだよね。三大事件建白運動の三つを要求は、何かな

授業を受けている生徒「三大事件建白運動の三つを要求は、外交の回復・地租の軽減・言論の自由

授業をしている講師「正解。今回は、明治時代の乱を押さえるについて話しました。次回は、大正時代の乱を押さえるについて話します。お疲れ様でした」

授業を受けている生徒「はい。お疲れ様でした」

●まとめ
<1885年~1912年(伊藤博文~西園寺公望)までの乱について>
壬午軍乱(壬午事変)→1882年(明治15年)、朝鮮の漢城で日本への接近を進める国王高宗の外戚閔氏一族に反対する大院君を支持する軍隊が反乱を起こした。軍隊が反乱を起こしたことに呼応し、民衆が、日本公使館を包囲した

甲申事変→1884年(明治17年)、日本と組んで朝鮮の近代化をはかろうとした金玉均らの日改革派(独立党)は、日本公使館の援助を得て、クーデターを起こした。しかし、清国軍の来援で失敗した
1885年(明治18年)、政府は伊藤博文を天津に派遣し、清国全権李鴻章との間で天津条約を結んだ

三大事件建白運動→1887年(明治20年)、自由民権論者が、 外交の回復・地租の軽減・言論の自由の三つを要求して元老院に建白書を提出した。しかし、政府は保安条例を制定して民権派を東京から追放した

大津事件→1891年(明治24年)、ロシア皇太子ニコライ(後の皇帝ニコライ2世)一行が、人力車で大津の京町筋を通行した際、路上警備をしていた津田三蔵巡査が突然、剣を抜き、皇太子の頭部を斬りつけた

甲午農民戦争(東学の乱)→1894年(明治27年)、朝鮮で東学の信徒の農民を中心に減税と排日を要求をした

日清戦争→1894年(明治27年)、ロシアの支配が、東アジアにまで拡大されていた。なので、危機感を抱いた日本は、ロシアの勢力支配が自国に及ばぬよう、まだどの国からも支配されていなかった朝鮮半島を支配することを考え、清国に宣戦した
日本の勝利で終わった
1895年(明治28年)4月、日本全権伊藤博文・陸奥宗光と清国全権李鴻章との間で下関条約が結ばれ、調和が成立した

義和団事件(北清事変)→1900年、清国では、「扶清滅洋」を唱える排外主義団体義和団が、勢力を増し、各地で外国人を襲い、北京の列国公使館を包囲した。清国政府も義和団に同調し、列国に宣戦を布告した
日本を含む列国は、連合軍を派遣し、義和団を北京から追放し、清国に降伏させた
1901年、日本を含む列国は、清国と北京議定書を結んだ

日露戦争→1904年(明治37年)2月、日本とロシアは互いに宣戦を布告した
1905年(明治38年)9月、セオドア・ローズヴェルトアメリカ大統領の斡旋によって、アメリカのポーツマスで日本全権小村寿太郎とロシア全権ウィッテは、ポーツマス条約に調印した

日比谷焼打ち事件→1905年(明治38年)、国民が賠償金を全く取れないポーツマス条約に不満を爆発させ、ポーツマス条約調印の日に開かれた講和反対国民大会が暴動化した

大逆事件→1910年(明治43年)、明治天皇暗殺を計画したとの容疑で多数の社会主義者・無政府主義者が、逮捕・処刑された

韓国併合→1910年(明治43年)、日本政府は、韓国併合条約を強要し、韓国を植民地化した

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