こんにちは。
「基礎歴史ブログ」運営者、しんです。
私は、大学時代3年間一斉授業・個別指導授業を担当し、担当した生徒の成績を最大30点あげた実績があります。
私は大学3年の時、1か月間ベルリン(ドイツ)にあるゲーテインスティテュートにドイツ語の語学研修に行った経験もあります。
今回は、「江戸時代のロシアとの関係を押さえる」について話して行きます。

「前回は、江戸時代のアメリカとの関係を押さえるについて話しました。江戸時代のアメリカとの関係は、何があったかな」
「江戸時代のアメリカとの関係は、8つあった。1つ目は、1846年、アメリカ東インド艦隊司令官ビッドルが浦賀に来航し、通商を要求したが、幕府は拒絶した。2つ目は、1853年4月、琉球王国の那覇に寄港したアメリカ東インド艦隊司令官ペリーは、軍艦(黒船)4隻を率いて6月に浦賀沖に現れ、フィルモア大統領の国書を提出し、日本の開国を求めた。3つ目は、1854年1月、ペリーは、7隻の艦隊を率いて再び来航し、条約の締結を迫った。4つ目は、1854年、神奈川で、江戸幕府と米国使節ペリーとの間でアメリカ船が必要とする燃料や食料などを供給すること、難破船や乗組員を救助すること、下田・箱館の2港を開き領事の駐在を認めること、アメリカに一方的な最恵国待遇を与えることなどが規定された日米和親条約。5つ目は、1856年、下田駐在の初代アメリカ総領事として来日したタウンゼント・ハリスは、通商条約の締結を強く求めた。6つ目は、1858年6月、大老井伊直弼は勅許を得られないまま日本とアメリカのタウンゼント・ハリスとの間で治外法権・関税自主権欠如などが規定された日米修好通商条約。7つ目は、1864年、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの4国連合艦隊が、下関の砲台を攻撃し、攘夷派を屈服させた四国艦隊下関砲撃事件。8つ目は、幕府が、イギリス・アメリカ・フランス・オランダと結んだ関税軽減を骨子とする改税約書に調印したことだった」
「そうだよね。例えば、1837年、日本人漂流民7名を伴い、通商を求めて来航した米国の商船モリソン号を幕府が1⃣に基づいて砲撃し、退去させた2⃣が起こった。しかし、1854年、江戸幕府と米国使節ペリーとの間で3⃣が結ばれた。3⃣が結ばれるまでの過程は、主に3つあった。1つ目は、1846年、アメリカ東インド艦隊司令官ビッドルが、4⃣に来航し、通商を要求した。しかし、幕府は、通商の要求を拒絶した。2つ目は、1853年4月、琉球王国の那覇に寄港したアメリカ東インド艦隊司令官5⃣が、軍艦(黒船)4隻を率いて6月に浦賀沖に現れ、フィルモア大統領の国書を提出し、日本の開国を求めた。日本の開国を求めた時の日本の対応は、幕府は対策せず、5⃣の強い態度におされ、国書を正式に受け取り、回答は翌年にすることを約束することになった。3つ目は、1854年1月、5⃣は、7隻の艦隊を率いて再び来航し、条約の締結を迫った。1⃣から5⃣までを埋めなさいと問題が出題されたとする。正解は、どうかな」
「1837年、アメリカとの関係で起きたことは、モリソン号事件。モリソン号事件は、日本人漂流民7名を伴い、通商を求めて来航した米国の商船モリソン号を幕府が異国船打払令に基づいて砲撃し、退去させた事件。なので、1⃣は、異国船打払令。2⃣は、モリソン号事件。1854年、江戸幕府と米国使節ペリーとの間で結ばれたのは、日米和親条約。なので、3⃣は、日米和親条約。1846年、アメリカ東インド艦隊司令官ビッドルが、通商を要求するために来航したのは、浦賀。1853年6月に浦賀沖に現れ、フィルモア大統領の国書を提出し、日本の開国を求めたのは、ペリー。なので、4⃣は、浦賀。5⃣は、ペリー。正解は、1⃣は、異国船打払令・2⃣は、モリソン号事件・3⃣は、日米和親条約・4⃣は、浦賀・5⃣は、ペリー」
「正解。今回は、江戸時代のロシアとの関係を押さえるについて話します。江戸時代のロシアとの関係は、どうかな」
「江戸時代のロシアとの関係は、6つある。1つ目は、1792年、ロシア使節ラクスマンが根室に来航し、漂流民を届けるとともに通商を求めた。2つ目は、1804年、ロシア使節レザノフが、ラクスマンの持ち帰った入港許可証を持ち、長崎に来航した。しかし、幕府は、正式な使節に冷淡な対応をし、追い返した。3つ目は、1811年、千島列島を測量中であったロシアの軍艦ディアナ号艦長のヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴロヴニンらが、国後島で松前奉行配下の役人に捕縛され、日本に抑留されたゴローニン事件。4つ目は、1853年7月、ロシア使節プチャーチンが、長崎に来、開国と国境の画定を要求した。5つ目は、1855年、幕府は、ロシアと日米和親条約と類似した内容で日露和親条約を結んだ。6つ目は、1858年、幕府がアメリカ・イギリス・フランス・ロシア・オランダとの間に安政五カ国条約を締結した」
「そうだよね。ロシア使節ラクスマンが根室に来航し、漂流民を届けるとともに通商を求めた時、要求されたことは、何かな」
「ロシア使節ラクスマンが根室に来航し、漂流民を届けるとともに通商を求めた時、要求されたことは、江戸湾入港を要求された」
「江戸湾入港を要求された結果、どうなったかな」
「江戸湾入港を要求された結果、幕府は、江戸湾と蝦夷地の海防の強化を諸藩に命じた」
「そうだよね。幕府が、正式な使節に冷淡な対応をし、追い返した結果、どうなったかな」
「幕府が、正式な使節に冷淡な対応をし、追い返した結果、ロシア船は樺太や択捉島を攻撃した」
「そうだよね。例えば、日本に条約を締結を迫った順に並べ替えなさい。ア ラクスマン イ レザノフ ウ プチャーチンと問題が出題されたとする。正解は、どうかな」
「ラクスマンは、1792年。レザノフは、1804年。プチャーチンは、1853年7月。なので、正解は、ア→イ→ウ」
「正解。今回は、江戸時代のロシアとの関係を押さえるについて話しました。次回は、江戸時代の中国との関係を押さえるについて話します。お疲れ様でした」
「はい。お疲れ様でした」
→江戸湾入港を要求された
→幕府は、江戸湾と蝦夷地の海防の強化を諸藩に命じた
・1804年、ロシア使節レザノフが、ラクスマンの持ち帰った入港許可証を持ち、長崎に来航した。しかし、幕府は、正式な使節に冷淡な対応をし、追い返した
→ロシア船は樺太や択捉島を攻撃した
・1811年、千島列島を測量中であったロシアの軍艦ディアナ号艦長のヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴロヴニンらが、国後島で松前奉行配下の役人に捕縛され、日本に抑留されたゴローニン事件
・1853年7月、ロシア使節プチャーチンが、長崎に来、開国と国境の画定を要求した
・1855年、幕府は、ロシアと日米和親条約と類似した内容で日露和親条約を結んだ
・1858年、幕府がアメリカ・イギリス・フランス・ロシア・オランダとの間に安政五カ国条約を締結した

「基礎歴史ブログ」運営者、しんです。
私は、大学時代3年間一斉授業・個別指導授業を担当し、担当した生徒の成績を最大30点あげた実績があります。
私は大学3年の時、1か月間ベルリン(ドイツ)にあるゲーテインスティテュートにドイツ語の語学研修に行った経験もあります。
今回は、「江戸時代のロシアとの関係を押さえる」について話して行きます。

















●まとめ
<江戸時代のロシアとの関係について>
・1792年、ロシア使節ラクスマンが根室に来航し、漂流民を届けるとともに通商を求めた→江戸湾入港を要求された
→幕府は、江戸湾と蝦夷地の海防の強化を諸藩に命じた
・1804年、ロシア使節レザノフが、ラクスマンの持ち帰った入港許可証を持ち、長崎に来航した。しかし、幕府は、正式な使節に冷淡な対応をし、追い返した
→ロシア船は樺太や択捉島を攻撃した
・1811年、千島列島を測量中であったロシアの軍艦ディアナ号艦長のヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴロヴニンらが、国後島で松前奉行配下の役人に捕縛され、日本に抑留されたゴローニン事件
・1853年7月、ロシア使節プチャーチンが、長崎に来、開国と国境の画定を要求した
・1855年、幕府は、ロシアと日米和親条約と類似した内容で日露和親条約を結んだ
・1858年、幕府がアメリカ・イギリス・フランス・ロシア・オランダとの間に安政五カ国条約を締結した
